帰るまでが遠足、呼吸までが音

家に帰るまでが遠足と、口を酸っぱくして言われてきたけれど、最後はついつい気を抜いてしまう。

車内でバスガイドさんが流してくれた、残り1時間でぶった切られるドラえもんの映画の続きをぼんやり考えながら、スイッチオフで帰路につく。
そう言えば私はそんな小学生だった・・・。

今回の「響きのある声と読み」では、発声から自分の中心となる声を探すというものだったのだが、シンプルな授業ほど基礎力が試されると私は戦々兢々としていた。

いろはにほへと・・・といろは歌を一音ずつ発声していくのだが、どうしても真ん中あたりで音がユラユラしてしまう。
一行声を出し切ったぞ!と思って何も考えずに呼吸してしまったけれども、間や呼吸の位置も含めて音ということを教わり、途中に気を抜くポイントなどないことを知る。

「良い声」とは表現したいものを表現できる声。

普段生活している中では、無遠慮に叫びまくっているので良く通る声ですねと言われることが多いが、ことナレーションになると声量が弱くこもりがちに聞こえてしまう。
この違いは何だろうか、と考えていたのだがそれが何となく分かった。

他の人への指摘にもあったのだが、ためらいや心の中にある気持ちはすべて音に乗るのだという。
基礎部分の構築が必要なのは大前提として、上手く読もうという気持ちや、これで良いのかという迷いや、少しの緊張も交じってそれらが音に乗っているということだろう。
迷うということは自分のベストなコンディションをまだつかめていないということで、そのためには自分を良く知るべきだ。

今の自分ができることはどんなことなのか、目指すべき場所はどこなのか。

授業の時はあれこれ考えて、呼吸がー、口の形がー、声量がーなどと頭上にコマいっぱいの吹き出しが登場している状態で、思考は3歳児が暴れた部屋並みにとっ散らかっている。

まずはこの散らかった思考の海から抜け出して、手探りで自分の武器を見つけていくことだ。

以前、手探りで暗闇を歩いてコオロギを踏んづけた 
土曜コア 大島