5月30日(土)、ネクスト藤本先生回の授業感想です。
◆
書き始めから遡った話になるけれど、昨年度の秋学期も数えるほどとなった頃、ベーシック、畠山先生の授業で
密かに苦い体験をした。
その日の内容は、ジャンルの異なる7種類の原稿のうち2種類を選んで読むというもの。
ただ、選択権は自分ではなくクラスメートにある。各々のイメージに合った原稿を、挙手による投票制で選ぶ。自分にどの原稿が振られるかは、直前までわからない。
すべての原稿に読む可能性を残したままの、下読み。“宇宙”を話題にした原稿が目に留まった。短いながらもわくわくする、魅力的な内容だった。
「これが読みたい!」
しかしながら、その原稿は大半を占める科学者のセリフ部分をボイスオーバー、後半のほんの数行だけをナレーションで読むというものだった。
「ボイスオーバーって、どうやるの……」
素地がない、というより知識が足りないのが明白だった。「読みたい!」が一転して「これになったらどうしよう」へ。結果的に、クラスメートが選んだのは違う原稿だった。ほっとした。同時にすごく「不自由」なんだな、と思った。
そんな経験をしたにもかかわらず大して状況を変えられないまま、先日、ネクストコースにて藤本先生回、ボイスオーバーの授業の日を迎えた。
ボイスオーバーが声優の領域とは異なると言われるのは、必要以上に役を作らなくてもよいという点に違いがあるからだという。その人の過去や思想を背負うことなく、画面から得られた情報に適した表現をあてる。
声を重ねる登場人物は、どのような立ち位置で出演しているのか。年齢や、職業は?容姿の特徴は?
“生まれた所や皮膚や目の色でいったいこの僕の何がわかるというのだろう”と甲本ヒロトは歌ったけれど、いかにそういった要素から得た「イメージ」を掴むか、そんな瞬発力が求められるのだと思う。
器用な人なら声優や演技の経験がなくてもぱっとできたりする!という超絶ミラクルはわたしには起こらなかった。
その日は大変ひっちゃかめっちゃかなプレイをしてしまったのだけれど、新たな領域に触れ、恥じらいとは別の原因で全身から発熱するような、そんな2時間だった。
様々な指摘のなかでも、印象的な先生のお言葉があった。
「画を見ると分かるんだけど、」別の方のプレイ後、先生は言う。
「この出演者は、周りのみんなに向けて喋っているよね」
確かに、それまでの他の映像は椅子に座ったインタビュー形式だったのだが、このとき画面に映っていたのは自分の職場の風景をツアーのようにみんなへ紹介する男性だった。
「その人が誰に話しているのか、距離感にも気をつけて」
1対1の近距離でインタビューに答えるとき、立って複数人に話しているとき、同じ表現にはならない。その方は即座に対応し、ぐんと良いプレイをされていた。映像になる前の、空間の奥行きを想像すること。セリフの言い終わりのタイムを書き込み元々の話者のブレス(息継ぎ)に印をつけただけの自分の原稿を見て、本当にわたしはまだまだだなあ、と感じた。
ナレーション原稿でも、表現の足し引きを考えるためにはひとつの正解として提案するに至るにはまず映像を理解しなければならないことを、バーズの授業で学んできた。
原稿や画にはヒントがたくさん書いてあるはずなのに、まだ見えない。
もっと伸びやかな表現をするために、
もっと自由でいられる自分になるために、
ボイスオーバーという切り口からもこれから研究していきたい。
◆
以上です。お読みいただき、ありがとうございました。
春9期 土曜ネクスト高橋あやな
ひとつずつ自由に近づくために