長雨が続いております。
真夏の日差しは文字どおり影を潜めたものの、湿度が高いので体感的には結局暑い。
と思いきや、突然秋のような気温になったり……。
半袖で出れば寒く、長袖で出れば暑い。
どうやら天気のほうも「なんとなくいい感じ」でやっているようです。
20期・春コアの杉田です。
さて今回は、省吾先生による「CMの立ち位置」の授業を振り返ってみたいと思います。
事前に配られたのは、数本のCMナレーション原稿。
「なんとなくいい感じにプレイできるように」
とのこと。
……なんとなくいい感じ。
なんでしょう、この簡単そうに見えて、ものすごく難しい注文は。
しかし授業が進むにつれて、この「なんとなくいい感じ」という言葉の奥深さを思い知ることになります。
バーズの講師のみなさんは、それぞれに魅力的でいらっしゃいます。
中でも省吾先生は舞台出身ということもあり、そこに居るだけでも伝わってくるようなオーラのある方です。
授業冒頭、先生は、
自分なりに大事にしてきたものがある。
今回はそれを、CMという短い原稿を使って紹介したい。
と話してくださいました。
では、その「大事にしているもの」とは何なのか。
それは、自分がどうしたいか。
原稿や映像を見て、自分は何を感じたのか。
そして、自分はどう感じたのか。
まずはそこから始める。
実際にやってみた結果、思っていたものと違う表現が出てくることもあります。
そのときは修正すればいい。
大切なのは、「言い方」を探すのではなく、
まず、自分がやりたいプレイをやってみること。
不慣れな原稿や、どう扱えばいいのかわからない映像に出会ったときも同じ。
「どう読むのが正解なんだろう?」
ではなく、
「自分はどうしたい?」
から始める。
そして、やりたいことを実現するために技術が必要なら、発声や滑舌を鍛える。
技術は表現を縛るためのものではなく、
自分のやりたいことを実現するためにある。
ということなのだと感じました。
「こう読みたい」
「ここに間を作りたい」
「こんな雰囲気にしたい」
自分の中に具体的なイメージを持つのも、もちろんOK。
ただし、実際に声を出したとき、イメージ通りにならないこともあります。
そこで先生が大切にされていたのが、
その瞬間に生まれたものを捨てないこと。
同じ原稿を、同じ人が、同じように読もうとしても、まったく同じプレイにはなりません。
声を出した瞬間に何かを感じ、その感覚によって次の言葉が変化していく。
その即興性を大切にする。
一方で、これまで身につけてきた「型」があれば、衝動的にプレイしても戻る場所があります。
まさに、守破離。
型を持っているからこそ、型を意識せず自由になれるのだそうです。
今回、特に印象に残ったのが、
言い方ありきでは、演出が鼻についてしまう。
というお話でした。
「ここはカッコよく言おう」
「ここは優しく言おう」
「ここで色っぽく……」
と、外側から「言い方」を貼りつけるのではない。
まず自分の中に、
原稿から感じたものがあり
それがあふれた結果、その言い方になる。
先生は、そういうプレイを大切にされていました。
先生は、
ナレーターは素材を提供し、それを先方に料理してもらう。
とも仰いました。
きっちりプレイすることは必要。
しかし、固めすぎてはいけない。
カッコよくてもいい。
明るくてもいい。
ただし「カッコいい」「明るい」一つをとっても、人によって出てくるものは違います。
誰かの正解をなぞるのではなく、
自分がやりたいことを、気持ちよくプレイする。
そこに、その人ならではの素材が生まれるのだと思います。
ここから、一人ずつ実践です。
設定としては、
現場で突然原稿を渡されて、「とりあえず読んでください」と言われたらどうするか。
間も、時間も、演出も自由。
省吾先生の指導を受けながら、それぞれが自分の中に生まれた衝動を頼りに原稿へ向かいます。
先生は、一人ひとりのプレイを聞き、
「今、どう感じたのか」
「何をしようとしたのか」
を確認しながら、丁寧に言葉にしてくださいました。
先生が何度も仰っていたのは、
外へアピールしようとしない。
ということでした。
「表現しています!」
と外側へ押し出すのではなく、
まず自分の内側に感覚を作る。
その感覚がいっぱいになり、
結果として外へあふれてしまう。
そんな状態が理想なのだそうです。
出そうとするのではなく、出てしまう。
これができている人のプレイを聞いていると、不思議と言葉が「言い方」ではなく、
その人自身の言葉として聞こえてきます。
原稿に書かれている文章なのに、その人が今、本当にそう思ってしゃべっているように感じる。
先生のお話の中で印象に残った言葉を、自分なりにまとめると、
・瞬間瞬間、感覚で選ぶ
・感覚を自分の中で「波」として捉える
・感覚でいっぱいになった状態から声を出す
・出した声によって、さらに自分の中が変化していく
・演出は「方向づけ」程度に考える
プレイしている途中で感覚が変わったら、
変えてしまっていい。
予定していた表現を守ることよりも、その瞬間、自分の中で本当に起きていることを優先する。
先生は、そうした即興性を大切にされていました。
原稿を見て、
「こう読みます」
ではない。
言葉を自分の中で感じる。
そして、「言いたい」
となった瞬間に、言葉を出す。
出てきた感情に乗ってしゃべる。
感覚の塊のような状態から絞り出された声や、そこで偶然生まれた間を大切にする。
だからこそ、予定調和ではない表現になるのだと思います。
やらされているのではなく、
自分が、あえてそれをやっている。
そんな状態を目指す。
一人ひとりに、
「何を大切にしましたか?」
「今、何を感じていましたか?」
と確認しながら、その感覚をどうプレイにつなげるのか丁寧に教えてくださいました。
そして、重要なのが、
基本はポジティブに、ご機嫌でいること。
悲しみを表現していてもいい。
悩んでいてもいい。
でも、表現者としての自分は「ご機嫌」である。
だからこそ、その悲しみや悩みを表現として楽しむことができ、見ている人も楽しめる。
先生のやり方でプレイしていくと、
原稿に書かれた文章を「読んでいる」感じが薄れ、自分自身の言葉として聞こえてくる。
そして、「この言い方をしよう」
という発想から自由になっていきます。
言い方は無限にある。
そして、人によって感じ方は違う。
だからこそ、その瞬間、その人の中に本当に生まれたものが出てくると、聞いた人はドキッとする。
そうして出たプレイは予想できない面白さや個性、魅力があります。
先生は、その面白さを楽しんでほしいと仰っていました。
ナレーションを学んでいると、
「ここはこう読む」
「このジャンルならこのトーン」
「ここではこう間を取る」
と、どうしてもテクニックや「やり方」に意識が向きます。
もちろん、それらは必要です。
型を知らなければ、自由に崩すこともできません。
でも、「これしかできない」では、本当に表現したいものが出てこない。
いろいろなことを試し、さまざまな型を身につける。
そのうえで、原稿や映像から何かを感じ、自分の中に生まれたものに乗ってしゃべっていく。
その衝動から、ふいに出てきたものこそ、
人の共感を呼ぶ本物の表現になるのではないか。
先生のお話を聞きながら、そんなことを感じました。
今回の授業を通して、
「なんとなく」とは、何も考えないことではない。
発声も、滑舌も、型も、技術も身につける。
原稿や映像についても考える。
演出の方向性も持つ。
でも、いざプレイが始まったら、
自分の中で、その瞬間に生まれたものを信じてみる。
「どう言えばいいんだろう?」
と外側に正解を探すのではなく、
自分の感じたもの、内側を見る。
そして、そこからあふれたものを言葉に乗せる。
それができたとき、ただ原稿を読んでいるのではなく、
自分の言葉としてしゃべるナレーション
になるのだと思います。
テクニックや型をしっかり身につけながらも、それらに縛られず、自分の中から生まれたものを大切にできるナレーターになりたい。 「どう読もう?」だけではなく、「自分はどうしたい?」と問いかけながら、自由にプレイできるよう精進していきたいと思います。
省吾先生、貴重なご指導ありがとうございました!